京都に行く前に
読んでおきたいと思った歎異抄ですが、難解すぎるから要約したものが無いかなと探していたら図書館で発見!
歴史や、親鸞さんの周りの事情も書かれていたので、いい本を見つけることが出来ました。ラッキーです。
歎異抄
浄土宗、浄土真宗と受け継がれてきた教えを弟子が書き残したもので、明治時代まで隠されてきた古典です。
自分の都合が悪いものを弾圧したり、隠さなければならなかったりするのは、昔も今も変わらないのね。
鎌倉時代
鎌倉時代には、他に日蓮宗や時宗などの新宗教が生まれました。
それまでの仏教は中国から伝わった厳しい戒律を守り、出家して修行しないと加護が受けられないというものだったので、普通の人には縁遠いものでした。が、法然さんと親鸞さんは一般民衆でも救われると説きました。
鎌倉時代は、貴族文化がおわって、武士や庶民が活躍した時代です。
法然さんと親鸞さんは、比叡山できびしい修行をされたのですよ。
法然と親鸞
法然は43歳の時修行していた比叡山を後にし「南無阿弥陀仏」と唱えると救われるという浄土宗を広めます
親鸞は法然より40年後に生まれ、同じく比叡山で20年修行しますが、山を下り、京都の六角堂に100日こもった時、夢に聖徳太子があらわれ「法然をたずねよ」と言われます。
そこから法然のもとに100日通い弟子入りしました。
その教えは民衆に支持されましたが、それまでの仏教が廃れることに危機を覚えた人たちに弾圧され、二人とも別々の場所に流刑になってしまいます。
歎異抄が隠されていた訳
歎異抄の歎異は、異なるのを歎くという意味だそうで、浄土宗、浄土真宗の教えが曲解されて伝わるのを歎いたお弟子さんによって書かれたものです。
当時、日本独自の初めての仏教浄土宗は国家から弾圧されました。
親鸞さんは教祖になるつもりは無かったようですが90歳で亡くなった後そのころ4千人いたという信者の集まりによって浄土真宗ができます。
霊的な能力や、親族にすごい人がいる
親鸞の子、善鸞は、鎌倉幕府にすり寄ったり、自分は親鸞の子だからすごい力があるといい、混乱を招いたので、義絶されました。
親鸞さんは、「自分に弟子は一人もいない」と言っていたという事が歎異抄に書かれています。
偉いお坊さんは、ちょっと困るかも??
法然さん
法然さん、親鸞さんは二人とも、比叡山できびしい修行をしましたが、これで皆がすくわれるのか?疑問をもって山を下りたところが共通しています。
法然さんは、修行するなかで、この方法は「万人がすくわれる方法ではない」ということに気づき、お経を読みなおします。その中で専修念仏こそが、万人が仏になる万人をすくう方法だと思ったそうです。
親鸞さんも、災害や病気で大変な時、難しい経典を読もうとしたけど、念仏でいいではないかとハッとしたと書かれてます。
京都に行ったら誰かに聞いてみよう
他力本願、悪人正機という教えは、誤解されがちだから、この本では、よくわかる誰かに伝授してもらうことを勧めています。
皆を救ってくれる阿弥陀様を拝んで。念仏も「南無阿弥陀仏」とシンプルです。
阿弥陀様とは
インドの大乗仏教に、人々の救済を目的として修業した人が仏になれば、その人の力によって皆も浄土で仏になれる
ということが書かれていました。阿弥陀様は修行をして人々を救うことを決心した人間でした。
阿弥陀様は「法蔵」という名前の、王族だったそうです。国を捨てて人を救おうと厳しい修行をするというのは、ブッダと一緒ですね。
このお経の話は、インドから中国に伝わり「極楽浄土」へのあこがれと阿弥陀仏を信仰する人が増えました。
従来の仏教は修行によって悟りを開くことでしたが、阿弥陀仏が私の中で働いてくれて仏の道を進んでいき仏になるという、誰でもできる方法で救われます。
自分のために祈ることを呪術といっていて、皆を救うという本願のために祈ることを勧めています。
本願念仏
仏から見たら、皆凡夫=悪人
南無阿弥陀仏という念仏は、もう死のうとしている極悪人がすくわれるには、これを唱えるしかない。という最後の手段としての念仏で
阿弥陀様の名号にはあらゆる功徳や智慧がおさめとられているから、称号念仏なんだそうです。
念仏は、あらゆる人ができる行でないといけないから、シンプルなのね。
悪人正機
阿弥陀仏が真っ先に救ってくれるのは悪人である
ここでいう善悪は、道徳の事ではないようです。
自分のことで精いっぱいの自己中心的な人物のことを悪人といいます。
悪人こそ救われるのだから悪い事をしよう。と実際に悪い事をした人も昔いたそうです。
良い事も悪い事も自分の意志で選べるものではない。
人間はどういう拍子でどう変わるか分からない存在だ。と書かれています。
お坊さんが説明してくれたことに
善人だけの家族は「あれが間違ってる、これがいけない」と悪い所探しをして、争いが絶えないのですよ。
とおっしゃっていて、ああ何か分かるなあと思いました。
他力本願
これは、他人に何とかしてもらう事ではなく、阿弥陀仏の本願のことを言います。
日本には、穢れを祓ってきれいな自分になるという神道の行事やお祓いがあるけど、取り除くではなく「罪は私だ」と考えます。
あの世に行って仏になった時に、やっと私が清らかな存在になる。のです。
親鸞は身内の供養のために念仏を唱えたことは無いと書かれています。
阿弥陀仏の本願という大きなものを信頼しているので、供養のために念仏を唱えることはないのです。
この世にいる間は不完全で良いのね
自分が正しくものを見られているかなんて、ちっぽけな人間には分からないのよね。
お坊さんと話をしていて、世の中は厳しいですね、と話すと、娑婆(しゃば)は厳しいです。とおっしゃっていました。
お坊さんや先生、よく勉強してる人達なのに、こちらのレベルまで下りてきてくれて本当に優しいなあと感じます。
娑婆とは、苦しみに満ちた耐え忍ぶ世界のこと
自分の出来ないことや、未熟なところをを責めたり反省したりするのも必要だけど、人間はそんなものと前を向くことは良いなあ。